星だけが僕を見ていたvol.7
7、現実という世界
次の日、朝起きてみると現実は現実のままだった。昨日の夜の出来事で落ち込んでいると言えばそうだったが、その何も変わらない現実の朝がそれを救っていたように思う。それに落ち込んでばかりもいられなかった。この日は追悼ライブとは別にもう一つのライブの日だった。
実は夏休み前から僕は、高校時代の同級生でもあった予備校の友達と組んでゆずの弾き語りを練習していた。それで「一回だけでもいいから路上ライブをやりたいね。」という事になり、この日にやる事になっていたのだった。
夜まで二人で集まって練習した後、僕らは新宿の都庁前に向かった。そして十人以上も集まってくれた予備校の友達に向けて、温かい雰囲気の中で歌った。自分達以外誰もいない土曜日の都庁の地下にある駐車場では歌声がアスファルトの壁に反射してよく響いた。
あの時は自分が亜季さんと別れた事など忘れて楽しんでいた。途中で警備の人が来てしまったけれどそれさえもネタにして笑い合えた。予備校の友達には元第九のメンバーとの事とか亜季さんの事は話していなかった。そういう意味でみんなとはどこか一線を引いていたのだけれど、ただ、一緒に勉強をして一緒に笑い合える仲間がいるという事に僕は救われたのだった。もう僕は大丈夫だと思った。そのはずだったのだ。
しかし、そう思っていたのも束の間だった。僕はその次の日のスタジオでの練習で「ある事」に気がついた。いや、それは誰もが気付くであろうほど露骨な行為だった。
僕と亜季さんの間に必ず誰か一人が割って入ってきた。それは多くの場合、亜季さんとも仲のいい長江君だったのだが、僕から亜季さんに喋りかけようとするわけでもない時も、まるで、いや、確実に僕を遠ざけようとしていた。
僕はまだ亜季さんの事が好きだった。でもきっぱりとフラれていたので僕はいわゆるヨリを戻そうなどとはまるで考えていなかった。ただ、好きな人にこれ以上嫌われたくなかっただけだった。いい友達でいようとしたし、できるだけ自然にそれを演じようとした。でも、これは。
僕はずっと戸惑っていた。こういう事をするという事は、僕と亜季さんが別れたって事をみんなが(少なくとも勝さんや長江君は)知っているという事だった。でも僕は誰にも言っていない。亜季さんが言ったとしか考えられなかった。また、亜季さんの意志とは無関係にこの行為が行われているとも思い難かった。
練習後しばらくして亜季さんは用事があって帰ったが当然僕はそれを追いかける事もできなかったし、みんなに今日の行為を問いただす事もできなかった。僕はショックを受けつつ何か釈然としない気持ちでいた。確かにあの日の僕はおかしかったし、衝動的にキスもしてしまったけれど、最後にキスを返してくれたのは亜季さんだった。でもこれじゃ本当に嫌われているみたいな対応だったし、もし嫌われたとしても理由がよくわからなかった。しかし、すぐにその疑問を含めたいろんな疑問の答えを得ることになる。
次の練習日の帰り、途中まで路線の同じだった黒田君と二人で電車に乗っていた。
「お前、曲できた?もうあと四日だろ?」
「うん。今回は出すのはやめようと思う。」
「そうか、できなかったか。」
でもこの時本当は曲はできていた。ただ、この歌を追悼コンサートで歌うとすると、これは自分達全ての思いを代弁するような曲でなければいけないと思い、そして僕にはその自信がなかった。
「一応できてはいるけど、やめとく。」
「なんだそれ。」
窓の外では夕日が通り過ぎていく街の全てを赤く染めていた。あの日を思い出す。
「お前亜季と別れたんだってな。」
突然黒田君がそう言った。
「勝と一緒に亜季から聞いたんだよ。お前電車でキスしたんだってな。」
僕はまるで事態を飲み込めていないかのように言葉を返せずにいた。尚も黒田君は続けた。
「あの日さ、お前が亜季にしゃべってる様子見た時からお前がもうやばいって思ったよ。」
何故そんな得意気に言うのか、僕はまだわからずにいて困惑した。
「それでさ、お前が俺と張り合って亜季と付きあってるって事を言ったんだよ。亜季はちょっと驚いてたみたいだったけど。」
…なんだろう。全然わけがわからない。僕は黒田君の言う事が何一つわからなかった。
「…張り合ってるって、何の話なの?」
ようやく僕は声を出せた。
「だからさ、昔俺が麻香と付きあってるって言った時に、お前も麻香が好きだって言ったろ?それがあったから、今回は亜季のことを取ろうとしたんだろ?」
笑いながら言っている。怒りながら言っているわけではなさそうだ。本気でそんな事を考えているようだった。僕はガクゼンとした。
「…そんなわけない。あるわけないじゃん。何でそんな事になってんの?」
信じられなかった。心にもない事だった。僕の全てを隅々までさがしてもそんな思いはないと言い切れた。何でそんな事を言うのかが全くわからなかった。
「そんなわけないじゃん。」
麻香さんの事を「好きだ」という話をしたのも、もちろん友達として、の話だった。黒田君が麻香さんと付き合う事になったと話してくれた時に、「僕の好きな人同士が付き合ってくれて本当に嬉しい。」という事を伝えただけだった。二年以上前の事だ。
「僕も麻香さんを好きだったから嬉しいよ。」
その言葉を黒田君はどう受け取ったというのだろう。そして黒田君の中でこの事を僕と亜季さんとの関係へ結びつけたというのだろう。
亜季さんはこの話を聞いたその夜に僕に別れを告げていた。誤解だ。僕はそんな誤解なんかでさよならを告げられたのだろうか?
この時、糸が切れた。後から振り返って考えると、きっと僕が「僕」でなくなり始めたのはこの時だったのだろう。僕は黒田君の言った事が信じられず、彼自体を疑った。亜季さんを「取った」僕に対する嫉妬や憎しみの感情から、彼は僕を貶めるために亜季さんやもしくは彼自身に対して「嘘」をついたのではないかと、そう疑ったのだ。
それから黒田君が目的の駅に降りるまで僕はまともに会話をする事ができなかった。もう僕は親友だと思っていた人を信じられなくなっていた。
次の日、僕は切れた。
予備校の友達の前で。何が理由かも覚えていないようなささいな理由で。
僕は疲れていた。ずっとあの事が頭を離れなかった。黒田君への疑念・怒りだけでなく、亜季さんがあんな話を信じてしまったこともショックだった。出会ってたった一ヶ月しかたっていなかったけれど、本当に深く関わりあった一ヶ月だった。人と張り合うために女の子と付き合うような人ではない、そんなはずない。そう思って欲しかった。そして他のメンバーさえも僕を亜季さんから遠ざけようとするこの状況に僕は悩み、苦悶し、絶望した。仲の良かった予備校の友達とも、その気まずさから僕はその先彼らから離れた席に座るようになった。それは気まずいというよりも僕がただ誰とも話したくなかったからなのかもしれない。いずれにせよ、予備校の友達との間に溝ができてしまった事に間違いはなかった。
亜季さんの誤解を解きたいという気持ちは少なからずあったけれど、この状況にまず僕自身がやられていてどうする事もできなかった。今考えると、いろんな事ができたようにも思える。けれどあの時の僕に出来た事は、ただ目の前にせまった追悼ライブに全てを傾けようとする事だけだった。
この時、追悼ライブまであと三日。そしてすぐにその日はやってきたのだった。