星だけが僕を見ていたvol.10
10、ただ、それだけの事
月日はただ過ぎてゆく。しかしこの時期ほどその言葉が当てはまる時期を僕はまだ知らない。この一ヶ月は亜季さんと出会ってから追悼ライブをやるまでの一ヶ月と本当に同じ一ヶ月という時間だったのだろうか。
「されど一日」という言葉を聞いた事がある。どんなに充実した一日でもどんなに実の無い時間を過ごした一日でも「されど一日」という長さであると言う事には変わりは無い、という意味だ。僕はその言葉に出会ってこの時の事を思い出した。
あの時期の事を僕はほとんど覚えていないが唯一覚えているのは一人きりで歩いていた事だ。予備校の帰り、僕は度々知らない道を歩いて回った。何をするのでもなくただ景色を見ながら歩いていた。僕の知らないところに何かがある気がしていたのかもしれない。
その知らない風景が時々とてもきれいなものに見えた。僕は時々感動し涙を流しそうになった。病んでいたのだと思う。しかしそれでも僕は少しでも現状を何とかしようとしようとしていた僕の唯一の抵抗だったのだと今では思える。唯一の抵抗。
現実を見ないように、見ないようにして僕はその一ヶ月を生き延びる。
そして十一月三日を迎えた。この文化の日は毎年僕や黒田君が通っていた高校のホールで第九の会が開かれていた。この日が近づくにつれ僕にはある考えが思いついた。亜季さんが来るかもしれない、という事だ。
相変わらず文学以外に友のいない状態だった僕は、ただ亜季さんに会いたかった。しかし、「一度は行ってみたい。」と言ってはいたけれど本当に来るかどうかはわからなかったし、来たとしても会える保障はなかった。ほんの少しの勇気があれば電話をする事だってできたのだが、それができないのがあの頃の僕だった。
そしてあの時の僕には一つの確信があった。
小林君の誕生日は五月十五日、命日は七月十四日。僕の誕生日は九月四日だった。つまり十一月三日は僕が小林君の年令(十九才と二ヶ月)に追いつく日だった。もしかしたらその日に僕は小林君と同じように死んでしまうのかもしれないとも思った。とにかく「きっと何かが起きるはずだ」とその時の僕は思い込んでいた。
高校三年生の時は進学校という事もあり、第九の会を引退していたので僕らが歌っていたのはもう二年も前の事だった。しかし同じく二年も同じ曲を歌い続けていたので少しの練習さえすればもう一度舞台に上がって歌う事も出来そうだった。実際にOB・OGも歌いに来るらしかったが、僕はさすがにそれには参加できるような状態ではなかった事は言うまでもない。
当日すぐに会ったのは勝さんだった。校舎の中のロビーのようなところで話していると黒田君や麻香さんにも会ったが、ただ当り障りのない会話をするだけだった。と言っても、家族以外の人と話す事があまり無かったあのころの僕にしては上出来というべきだったかも知れないが。その後第九を聞きに会場に行ったが、亜季さんは見当たらない。他のメンバーも誰も来ているかどうかを知らないみたいだった
。やがて第九の演奏が始まったが、過去の自分達を思い起こさせる以上のものではなかった。思い出も迫力のある生演奏も僕に何か力を与えてくれはしない。その事に少し失望し演奏が終わると僕は皆と別れ一人帰路についた。
しかし帰りのバス停まで歩く間に僕は一人、思い直した。そして同じように帰路につく人波の中に亜季さんを探した。けれど亜季さんは見当たらない。しばらくすると帰路につく人の数もまばらになり、亜季さんはやはり来ていないのだろう、もしくはもっと先に帰ってしまったのだと思った。
「亜季さんはもう来ない、亜季さんはもう来ない」
僕はそう思いながらも何故か諦めきれず、その場に残っていた。
しかし、ふと視線をやったその先に亜季さんはいた。亜季さんも多分同時に気付いたようでこっちに向かってきた。ただ、隣に居たのは僕の知らない男の人だった。僕から先に声をあげた。
「来てたんだ!黒田君たちには会った?」
「ううん。黒田達も来てたんだ。」
「多分まだいるよ。」
「うん。でも今日はいい。慎ちゃんのやってた事を見たかっただけだから。」
ふと隣の人と目が合い、お互い恐縮しながら「こんにちは」を言い合った。笑顔の人懐っこい感じの人だった。どこか小林君を思い起こさせた。
「それじゃね。」
「うん。じゃねー。」
結局会っていたのは三十秒ぐらいだっただろうか。けれど会えた事が僕にとって何より大きな事だったのは間違いない。僕は一ヶ月前に取れなかった胸のつかえが取れている事に気がついた。原因はすぐにわかった。隣の男の人の笑顔だった。
あの人は今の亜季さんを支えている人だ、と僕は直感した。そして一目見て僕はその人を何故か好きになってしまっていた。亜季さんとあの人が一緒にいるという事が僕の何かを断ち切った。それは僕の拙い希望だった。
僕はあの時、この後に及んでまだ亜季さんの一番近い人になる事を諦めていなかった事に気付いた。どんなに可能性が少ないように見えてもそれが0でない限り、結局それにすがっていた。
「それが希望の魔力なんだ。」
僕はそう思った。しかし二人の姿を見てその可能性を、その魔力を断ち切る事ができたのだった。
たったそれだけの事。でもそれだけの事で人生は変わる。そして僕はここから少しずつ少しずつ、前に進んで行く。