星だけが僕を見ていたvol.6
6、初めての感情
「なんで、なんで亜季さんがいるんだ?みんなと。」
町田のスタジオの待合室に入った時、黒田君や勝さんと一緒に楽しそうにしている亜季さんを見た。集合時間よりも十五分以上も早いのに三人もそろっているわけがない。声にこそ出さなかったが僕の心は大きく揺れた。
九月に入り、僕は予備校の通常の授業が、亜季さんは高校の新学期が始まった。僕の方は講習をあまり入れていなかった夏休みとは変わり、朝から午後まで講習を受けるようになった。亜季さんは1日は始業式とかだけだったらしいのだが、途中でクラスから抜け出してしまったのだとその日の夜の電話で聞いた。亜季さんはつぶやくように言った。
「あの人、そんな事言っても仕様がないのに…聞きたくなかった。」
実は亜季さんの高校の先生の息子さんが夏休み中に事故で死んでしまっていたのだった。その事故とはわた菓子を食べていた子供が誤って割り箸を飲み込んでしまい、それが喉の中で引っかかったせいで脳に刺さってしまったというものだった。親(先生)は箸を飲んでしまった時点で息子を医者に見せたがその医者は喉に引っかかっていたはずの箸に気付かず「もう大丈夫」として家に帰してしまった。親は医者がその時気付けば息子は死なずに済んだ、として訴え、ニュースでも大きく報じられ、勿論僕も知っていた。でもまさかそれが亜季さんの高校の先生だとは、と驚いた。と同時に亜季さんがクラスを抜け出した理由もわかる気がして僕は口をつぐんだ。きっとその先生は息子を失った悲しさをその医者への怒りに変えていたのだろう。しかし亜季さんにとっては「誰のせいで死んだ。」とか「誰がこうしていれば死なずにすんだ。」という話を聞くのは耐えがたい事だったのだと思った。
「なんであんな事言うんだろう。」
亜季さんのこの言葉の裏にはもっと深い意味があったろう。カコさん、小林君のお母さん、そして亜季さんのことを思った。
「よぉっす、どうしたのこんなに早く、どこか行ってたの?」
言葉としては普通だがどうにも語調がおかしかった。動揺は隠せない。隠せるものは動揺ではないと思う。
「おぅ、ちょっとね。」
黒田君があいまいに答える。どうやらカラオケに行っていたらしい。いつ、どうやって決まった話なのだろうか。つまり僕は昨日の亜季さんとの電話の時点でこの予定が決まっていたかどうかを知りたかった。
「そーいやさぁ、お前曲できた?」
勝さんが僕に当然の質問をした。実は、今回の追悼ライブで一曲自分達でオリジナルの曲を作って歌おう、という事になり僕が作詞作曲をする事になっていた。
「ん…それが出来てる事には出来てるんだけど…何ていうかこのままじゃ出せない感じないんだ。」
確かに僕は詩、曲共に完成させてはいた。しかし、選曲したその他の楽曲に比べれば比べるほど僕は何かが足りない気がした。曲については仕方がないにしても、詩は今回の事におけるみんなの思いを代表するようなものであるべきはずだったが、とてもそうなったとは言えなかった。ライブまであと十日を切っていた。少なくともバンドでこの曲をやるのはもう無理、という事になり、やるとしても弾き語りにする事が決まった。しかし結局この曲はライブではやらなかった。
「ねぇ、前に頼んだ楽譜。持ってきた?」
突然、亜季さんが僕に聞いた。
「も、もちろん。亜季さんが言った事だもん、忘れるわけないよ。亜季さんのことは絶対忘れないよ。」
みんなポカンとしている。僕は喋りながら当然自分がおかしい事に気付いた。収まりかけていた動揺が亜季さんの声でまた噴き出してきたのだ。普段二人で話している時にもこんな事になった事はなかった。
考えてみれば、二人が付き合ってから亜季さんと会うのは二人きりの時ばかりだった。前にバンド練をした時は、練習後亜季さんだけすぐにバイトに行ってしまったので周りの人に嫉妬する事はなかったのだ。そう、この時初めてこのどうしようもない動揺の正体が嫉妬である事に気がついた。そしてこれは人生で初めてそれと認めた感情だった。
練習後、やっと僕らは二人きりになり、練習中ずっと抱えていた疑問を聞く事ができた。いつ、そんな話になったのか。
「あぁ、昨日黒田から電話かかってきて誘われただけだよ。」
「それって僕の電話よりあと?」
「ううん、確かそれより前だったと思うけど…どうして?」
「だって…じゃあなんで僕にそれを言ってくんなかったの?」
「えっ、なんでって…。」
亜季さんはまた無言になった。まるでそんな事を言われるとは思ってなかったのだろう。というより、僕にその誘いの事を言ったほうがいいかどうかなんていう発想すら出てこなかったのだと思う。一方、僕の嫉妬はさらに熱を帯び始めた。
「これからさ、そういう事があったら一言教えてよ、ね。」
そこまでは言ったが、しかしそれ以上は言えなかった。僕以外の男の人と遊ぶなとは言えなかった。でも気持ちはそう言っていた。言いたい事を言い切れない分、体には得体の知れないエネルギーが溜まっていった。他の話題をしてみるが、どうもうまくいかない。そんな思いが消えないまま、二人は町田駅から同じ下りの電車に乗ったのだった。
何か楽しい話をしなければいけないと思った。無理やりにでも、何でも。しかしその思いは、さっきのエネルギーがまだ充満していてうまくいかなかった。途切れ途切れの会話。途切れ途切れの沈黙。電車を急行から各駅停車に乗り換えても僕は変われない。普段の自分に戻れない。時間の他に僕には何が必要だったのだろうか。
右隣に座る亜季さんを見た。亜季さんと目が合う。一瞬見つめあった後、僕は亜季さんにキスをし、すぐに前に向き直った。亜季さんの顔など、見られない。
実はこの時、この行動は衝動的だったため僕の唇は正確には相手のそれを捕らえていなかった。唇とほほの間のところにただ一瞬、触れただけのキスだった。
僕が亜季さんを見れないままでいると、そっと伸びてきた手が僕の顔を亜季さんの方へと優しく向かせた。そしてその手に導かれるままに僕らはもう一度キスをしたのだった。
あの感触はまだ覚えている。そしてあの時の気持ちはずっと忘れる事は無いように思う。僕らは唇を重ねたまま身動き一つせず、そのままお互いを感じていた。目を閉じた亜季さんの顔が間近にある。一分ぐらいだったのかも知れないし五分以上していたのかも知れない。とにかく、僕にとって永遠にも思える時間をまどろみの中過ごしたのだった。
互いの唇を離した後、また亜季さんの顔をみて僕は何も言葉を用意していないのに気が付いた。また沈黙が続いたがそれまでの息苦しさはなかった。幸いすぐに亜季さんの下車駅に着いた。「それじゃ、またね。」「うん、また…。」亜季さんが降りドアが閉まる。それを見届けて、一人になってからも僕はまだまどろみの中にいた。
車両には、上りの各駅停車とは言えまばらながらにも人がいた。しかし僕は車両を変える事なくさっきまでの一連の出来事を反すうし続けるのだった。
次の日の夜の九時頃、電話が鳴った。母親がそれに出て僕を呼んだ。亜季さんからだった。
亜季さんから電話をくれるのは珍しかった。大体は僕から電話をかけていたからだ。
「もしもし、元気?」
「…うん。」
「そっちから電話くれるの珍しいね。ちょうど僕も電話しようと思ってたとこでさ…。」
「あの…。」
僕の言葉が遮られる。
「私達、別れましょう。」
事務的な喋り方に驚きながら血の気というものがサーッという音を立てた。
「友達でいた方がいいと思うの。」
まだ声は出なかった。
思い当たるのは昨日の電車での事だった。嫉妬して、おかしくなって、あんな事をしてしまったのだ。そうだ、あれはおかしな行動だったんだ。キスした時、確かに優しく笑って導いてくれた気がしていた。けれども後になって僕の嫉妬したおかしな僕の事を怖くなったのかもしれない。それとも、黒田君との時のように、キスをしてみて僕の事を「違う」と感じたのかもしれなかった。そうだ、もともと僕が亜季さんと付き合っている事自体が何かの間違いのようなものだったのだ。そうかもしれない。いつの間に、僕は泣き出していた。
「はは、そうだよね…。うん、ごめんね。ごめんね…。」
喋ると自分の声がすすり泣くようになっていた。しかし、自分ではどうしようもなかった。
「昨日とか、おかしくなってたもんね。ごめん…。」
僕は、ごめん、とばかり言っていた。逆に亜季さんは一言もそう言わなかった。ただ、僕がまともに喋れなくなって何分もただ泣いているだけになった時も電話を切ろうとはしなかった。ずっと、僕を待っていてくれた。
やっと落ち着き始めた頃には電話を始めて二十分ぐらいはたっていただろうか。相変わらず亜季さんはほとんど何も喋らなかった。亜季さんは言葉をすごく大事にしている人だった。だからこそ、喋らない。
「僕は、小林君も、亜季さんも好きで…だから、友達でも亜季さんを好きでいいかな。」
そんな事を言った。返事はあったのだろうか。
「追悼ライブ頑張ろうね。」
「うん。」
「それじゃあね。」
「それじゃ。」
電話は切れた。僕はまた泣かなければいけなかった。いつのまにか僕の亜季さんを想う気持ちはきれいなものではなくなっていて、だからこそ亜季さんを失うことの痛手は大きかった。そのまま僕は電話を前にうずくまっていた。いくらでも涙は出た。僕の痛みはそういうものだった。
十二時を回り、僕は亜季さんに電話をかけた。迷惑は承知だった。どうしても話したいことがあった。
「もしもし、亜季さん?」
「うん…どうしたの。」
「今日、誕生日なんだ。僕の。」
「…。」
「だから、どうしても声が聞きたくて。」
「…うん。」
また涙声になる。
「それじゃね、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
電話は切れた。結局亜季さんとつき合っていたのはたったの十日間だけだった。こうして僕の十八歳は終わりを告げた。そして僕は十九歳になった。