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特集記事

星だけが僕を見ていたvol.3

3、鎌倉へ

 1999年8月19日の朝、僕は小田急線千歳船橋駅のホームのはじで亜季さんを待っていた。多少早めに着いたのだが、約束の時間が少し過ぎただけでかなりそわそわし始めてしまった。

 「本当に今から鎌倉に行くのかな。時間過ぎても来ないし、中止になったのかな。携帯も持っていないから僕だけ知らないんじゃないのかな。」

 そんなことばかり考えてしまうのだった。

 住んでいる家の関係で、僕は亜季さんの住むこの駅のホームで待ち合わせして、町田駅で黒田君と合流する予定だった。黒田君と合流するまで二人きり、というのは僕にとってかなり身構えてしまう事だった。ここまでにも何度か書いたが、僕は本当に女の子とは縁遠く、話すのは明らかに慣れていないほうだった。

 それだから不思議だった。少し遅れてきた亜季さんと町田に行くまでの間、自分でも信じられないくらい楽しく二人で会話していたからだ。この時だけですごく仲良くなったと感じるくらいだったと思う。黒田君と合流してからも、亜季さんと僕が二人して、少し遅刻してきた黒田君をからかったり、わざと内緒話をしてみたり。そんな調子で、ただ目的地に行くための電車の旅は僕達の心を色づけていったのだった。

 その途中、小田原駅で江ノ電に乗りかえた。徐々に僕を懐かしい空気が包む。

 鎌倉に来るのは久し振りだった。中学校の時以来だろうか。確かあの時は「事前にどの寺院を廻るのかなどの計画を立て、三、四時間の自由時間を班行動する」といったものだった気がする。クラスのみんなで作った地図の上では、鶴岡八幡宮と銭洗弁天が近かったので両方を廻る事にしたのだが、実際にはかなりの距離があった。また、選んだルートが坂道だったため、かなり道程がきつかった事を覚えている。そう書くと、あまりいい思い出には聞こえないが、むしろあの時は「一生懸命がんばった」と記憶していたせいなのか、ともかく僕は鎌倉が好きだった。

 あの頃と変わっていない江ノ電が僕達を迎えた。僕はバックの中にしまっていた青い帽子をかぶり、すっかりハイキング気分だった。その帽子を見て亜季さんが「ノッコさん」だと言っていた。NHKの教育番組に出てくる帽子をかぶった人なのだが、僕はその人をなんとなく覚えている程度で名前も忘れていたのだが、悪い気はしなかった。風のような人、というイメージがあったからだろう。そう、風のような人。

 僕達は電車に乗り、外の景色を眺めた。町の中を走っている時には電車から1メートルくらいのところに家や建て物があり、そこを抜ければ視界に海が広がる。変わる風景に僕らは声をあげてはしゃいでいた。すごく人気のある路線だと聞いてはいたが、僕もその例にもれずたった2両しかないこの電車を好きになったのは言うまでもない。

 電車も終点につき、僕達3人は街を歩きながら鶴岡八幡宮に向かっていった。僕は4年前の記憶を頼りに先頭を歩き始めたが、今回の日帰りの旅は八幡でお参りすることが目的らしき唯一のことだったので、結局みんなで寄り道ばかりしていた。店先に置いてある小物やおもちゃを見て回り、「何かおもしろい物はないかな」という感じで手にとって遊んでいた。

 そのせいで、普通に歩けば二十分もかからない道のはずだったが、その倍以上の時間をかけて鶴岡八幡宮に着いた。が、ここに着いても、お参りをする前に池のコイやハトとかを見たり、エサらしいものをあげたりしていた。

 あの日、僕達はとても小さな事に心を動かして、小さな事で笑っていた。そう、あの頃の僕らはとにかく笑っていたかったのだ。でも、一人でいても笑えることなどなかったし、二人でいても影を背負っているもの同士ではどうしても小林君の話を避ける事はできなかった。でも、今日は三人だった。僕達は小さな事で笑って、小さな幸せを感じていたように思う。もちろん、影から逃げていただけなのかもしれない。でも、確実に僕らは前を向かって進んでいた。

 黒田君はビデオカメラを持ってきていた。鶴岡八幡宮に着いた時ぐらいから先、カメラは僕達三人を時おり写していた。亜季さんは普通のカメラを持ってきていた。でも僕らを一度も撮らず、ずっと風景ばかりを撮っていた。僕は何も持ってきていなかった。でも心のシャッターをきった。忘れられない光景が僕の中にいつまでも残った。あの日と同じように空は青く晴れていた。

 僕達は八幡宮でお参りをした後、近くの店で遅い昼御飯を食べ、鎌倉の海へと向かった。皆水着を持っているわけではなかったが、陽の落ちる前に海を眺めたかったのだ。それは三人とも同じだった。来た道を引き返し、また江ノ電に乗り、海の近くの駅まで行き、よく知らない道を歩いた。それでも迷う事はなかった、海の風が僕らを誘っていたからだ。

 誘われるままに辿り着いた海は静かだった。僕達の他にほとんど人は居なかった。彼方に人影が見えるくらいだった。三人は海で遊んだ、といっても泳いでいたわけではなくて、海にひざまでつかったくらいで、同世代の人達がしているのと同じように、お互いに水をかけて遊んだ。

 海と恋する人はどこか似ているように思う。見ているだけなら美しく、触れ合えば楽しく、入りこみ過ぎると溺れてしまうのだ。あの日の僕はそんな事を知らない。本当に何も知らない子供だった。ただ楽しくて、海辺ではしゃいでいたのだった。

 しばらくしてはしゃぎ疲れた僕は、水辺から少し離れたところに黒田君と一緒に腰を下ろし、一人で海と戯れる亜季さんを見ていた。だんだんと赤みを増してきた空に、亜季さんの姿がシルエットになって僕の目に映った。本当に、本当にきれいな光景だった。

 「小林君も見守っているんだろうか」

そんな事を思った。僕は幸せだった。亜季さんと黒田君と一緒にいれて、幸せだった。

だが、しばらくした後、事件は起こった。

 あの事件を起こしたのは、黒田君や亜季さんだったのか、それとも僕だったのかはわからない。ただ、あの時の僕にとってあれは確かに事件だった。

 黒田君と僕は隣に座り、亜季さんは少しだけ離れたところにいた。「これからどうしようか」と僕が聞いたのだと思う。

 「ここらへん休めるところあるよな。海に入ったから洗いたいしな。」

黒田君は続けた。少しずつ僕の心を確かめるように。

 「お前どっかあるとこ知ってるか?三人で行かないか?」

僕は変な想像をしそうな自分を感じた。「まさか、そんなはずはない。」そう思おうとした。だが、次の言葉は決定的だった。

 「亜季もいいみたいだしさ。」

・・・何を、何を言っているんだ。

いつのまにか黒田君の隣に座っていた亜季さんは、ずっと夕日の方を見ていた。何も答えなかったが、その無言自体が何より黒田君の言葉を裏打ちしていた。

 僕は当時、まだ女の子と付き合った事がなかったけれど、女の子に大きな幻想を抱いているわけではなかったと思う。それでも、僕のそれまでに培ってきた倫理観におさまり切れる事態ではなかった。そういう行為をしたい、したくないという事とは全くかけ離れたもの。それにもかかわらず、目の前に起こった現実だった。

 「二人はいつそんな話をしたんだ?僕が居ない時に?食堂で僕が帽子を忘れて取りに戻った時だろうか?」黒田君は僕の反応を待っている。僕は混乱した。

 「そんな事、ありえないよ。理由とかそういうことじゃなくて・・・。とにかくそんな事できないよ。なんでそんな・・・」

いつのまにか僕は立ち上がっていた。

 「とにかくありえないよ。それなら僕は帰るから二人で行って来てよ。」

大声で一気にまくしたてた。ずっと僕を見ていたであろう黒田君の顔を見て、僕ははっとした。

 二人は呆然とした顔で僕を見ている。凍った、瞬間。

 さっきまでの完全で美しい世界はもうすでに壊れていた。波の音も忘れさせるほどの沈黙と時の空白が僕をおそった。それを埋めようという焦燥にかられ、僕はまた似たような事を言ったが、僕の取り乱し様を強調させただけだった。ただ、止まった世界で波だけがたえず動いていた。

 僕らは海を後にした。いつのまにか夕日は沈んでいて、僕らが駅に着いた頃にはだいぶ暗くなっていた。鎌倉限定というプリクラを記念に撮った。さっきの事件の後から駅に着くまでの事はあまり覚えていない。でも三人は、まるでさっきの事はなかったかのようにはしゃいでいたのは確かだった。僕も不思議とその事件を忘れていたように思う。三人はきれいな三人のままで鎌倉を後にしたのだった。

それから先、あの日を思い出す時、僕の胸に焼きついていたのは亜季さんと海ではしゃいだ事だったり、亜季さんの姿をシルエットにした夕焼けの海だったり、とにかくあの事件の事ではなかった。そしてそれは、これから先三人の間で尾を引く事はないのだった。


後でもう一度お試しください
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