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特集記事

星だけが僕を見ていたvol.5

5、ふたり

 二日後の昼、僕は下北沢の駅前で亜季さんを待っていた。いろんな髪型や服装をした人達でごったがえす中、約束の時間を過ぎても現れない待ち人。こんな時、僕の心は穏やかでいられない。

 あの日から、一学年下(誕生日の関係で同じ18歳だったけれど)の女の子に完全に心を奪われてしまった僕だったが、その日は次に会う約束すらしていなかった。そこで、一度も付き合ったことのなかった僕は、翌日、直接亜季さんに電話するという勇気ある挑戦をした。亜季さんに電話するのは鎌倉に行く時に待ち合わせの約束をした時以来二回目だったけれど、あの時よりもずっと緊張した。他愛のない内容とは裏腹に心が汗ばむ。それでも何とか会う約束をする事ができた。

 しかし、待ちながら時間が五分、十分と過ぎるごとにその約束自体を疑い始めた。僕の心は、鎌倉に行った日、駅で待っていた時と同じような状態になってしまった。さらに度合いで言うとこっちの方がひどかった。

 実はこの時、亜季さんが「やっぱりつき合うのやめよう」と言うのでは、と内心ビクビクしていたのだ。それは僕自身への自信の無さ、そして亜季さんの過去の恋愛遍歴(二日で別れた事があると言っていた)を考えると、僕の考え得る中で最も起こり得る事態だった。僕がもし電話をしたら、亜季さんに「やっぱりやめる」と言われそうな気さえしていた。だから亜季さんがやってきた時、あまりにけろりとしているというか悪びれない様子だったので、内心「あれほど悩んでいた僕は何なんだ。」と思ってしまった。どうやら、十五分くらいは遅れたという意識はあんまりなかったみたいだった。結局、怒れもせず平然と「どこへ行こうか?」と聞くしかないのだった。

 亜季さんが目当てだった赤いハンカチを小物店で買った後、ブラブラといろんな店を周って歩いた。途中、本屋によった時に、亜季さんは江國香織さんという人の本を手にとっていた。

 「新しいの、出たんだ。」と亜季さんは少し読み始めた。

それを見た僕は

 「そういえばもうすぐ僕の誕生日なんだけど、亜季さんの誕生日はもう過ぎちゃったよね。だから、その本を一ヶ月遅れのプレゼントってことで僕が買っていいかな?」

 と言うと、亜季さんも「いいの?」といって喜んでくれた。(その本は「神様のボート」というタイトルのハードカバーのもので、後に亜季さんは「こういう時に読む本じゃなかった」と言っていた。この二年も後になって、この本のストーリー(行方知れずになった夫と会うためにその妻が子供を連れ立って旅を続ける話)を知る事になる。

 その後、歩き疲れた僕達は亜季さんがよく行くスターバックスに行って休んだ。そこで僕は亜季さんから手紙のようなものをもらった。

 「これね、前に私の好きな音楽とか小説を紹介しようとして書いたの。本当は花火の日に渡そうとしたんだけど忘れちゃって・・。」

見てみると手紙の中にMDが入っていて、手紙の中身は音楽や小説の解説だった。B5の髪が全部で5枚くらいあった。

 僕は嬉しかった。こんな事をしてもらったのは初めてだったと思う。何より嬉しかったのは、この手紙(みたいなもの)を書いてくれたのは花火のお日よりも前だった事だった(紙には8.23と書いてあった)。それはつまり、僕が告白して想いを伝えるよりも前、ただの友達だった時に、こんな物を僕宛でいてくれたという事だった。僕の告白に答えてくれたのはあの場の雰囲気だけじゃなかったのだと知って僕は嬉しくなっていたのだった。紹介されている中にはさっきの江國香織さんを始め僕が当時知らなかった人の作品ばかりだったのだけれど、亜季さんの丸文字で紹介されたその作品群は僕の目にとても魅力的に見えていた。

 その後もコーヒー(カフェモカ)を飲みながら話していたのだけれど、突然亜季さんが「詩ができそう」と言い出した。そしてそこに置いてあるテーブルを拭いたりする時に使うナプキンの上に凄い速さで書き始めたのだ。しかも一度書き始めたら止まらないのか、一つの詩が出来上がったと思ったらまた新しいものを書き始めた。これはその最初の詩

 ―夢を見た―

「久しぶりに夢をみた

 君の出てくるゆめだった

 あんまり優しく笑うから

 ゆめだってすぐわかった

 今どうしているか わからないけど

 君はあの頃 私が思うより ずっと

 大切に思ってたんじゃないかな、

 今どうしてるか わからないけど

 君は今頃 私がおもうより ずっと

 大切に覚えてるんじゃないかな、」

次々に書いてゆく。そして次が最後の詩。

「成長しない進歩がない そんな毎日がすきだった

 ふみだしたあなたを ひきとめるのは残酷で

残されて 私 恋しさのあまり泣いた

万能の神さまへ 天国の魂さまへ

あらゆるすべてのものへ

どうか ― どうか。

気付くことは傷つくことだ

理想の世界はこわれた

私はみなければならない

その先にある真実を。」

店に入ってからもうすでに二時間がたとうとしていた。僕はその詩の意味を考え、何も言えずにいた。空気はただ深く沈みこんでいた。亜季さんが詩を書きながら心を沈めていく中、僕の心も同じだけの深さに落ちこんでいたのだった。亜季さんを見つめる。見つめ返す亜季さんは僕に笑いかけてみせた。ふと思ったままの言葉を僕は言っていた。

 「早く亜季さんの本当の笑顔が見たい。」

亜季さんは少しだけ驚いたみたいだった。「バレてるね」といった後、「そうだよね」と自分に言い聞かすように続けた。僕は少しだけ笑って、また真顔になった。またそこに静寂が戻る。

 僕にできることは何もないのかなと思った。声にも出して言ってもみた。亜季さんは何も答えない。亜季さんが何も答えない時はいつも「NO」ではなかった。そう思っているうちに「ううん。」と答えてくれたと思う。僕は亜季さんの手にキスをした。いつのまにか僕の手は亜季さんの手を掴んでいた。

 「僕は亜季さんの傍にいるよ。」

小さな声で、しかしはっきりと僕はそう言った。それは亜季さんに対する「誓い」だった。

 どうしてあんな事をしたのか、その日中僕は考え続けたが答えはでなかった。確かにあの時の気持ちは普通じゃなかった。でも人生で初めてのキスを(手にとはいえ)あんな場所でしてしまった自分に驚きと後悔に近い気持ちを覚えた。しかし、それが後悔そのものでなかった事が僕をその行動に走らせた一つの答えだろうと今では思う。

 あんな事があった二人だったが、店を出た後は普段と変わらぬ調子で話し、そして別れた。鎌倉に行った時と同じように。よく「心の問題は時間が解決してくれる。」と言われるけど、むしろ「場所」が変わる事で特に「気分」や「心持ち」といったものは変えられるような気がした。心と体はやはりつながっているように思う。

 下北沢に行った二日後にもまた二人はデートをした。その時は亜季さんの家の近くや公園を散歩したり、小物の店によったりした。亜季さんは歩きながらよく歌を唄った。最初は少し驚いたが、気持ちよさそうに唄う亜季さんを見るのがすぐにとても好きになった。知っている歌は僕も一緒に歌った。こんな年にもなって二人で歌を歌いながら散歩をしているという事がとてもおかしくて楽しかった。

 会えない日には必ず電話をした。いつも長電話で長い時は二時間以上も話していた。話の内容はいろいろ。亜季さんがくれたMDの話や、ちょっとした世間話から、小林君の思い出などまで本当にいろんな事を喋った。恋人だからいろんな事を話す、というよりはお互いにどんな事でも話す性格だったからのように思う。僕達は移り気でいろんな事に興味を向けて特に僕は自分の知らない大きな世界を持つ亜季さんの話に惹かれていた。

 それでもあの日は驚いた。

 「そういえば、昨日バイト中に意識失って倒れちゃったんだよね。」

亜季さんは平気でそんな事を言った。亜季さんはコンビニでバイトをしていた。

 「結局、店の奥で横にならせてもらって何時間か休ませてもらって。今は全然普通だよ。」

「昨日」と言えば午前中にバンド練習をした日だ。あの後バイトに行って倒れて、その後まるまる一日以上たって僕はやっとこの事を知ったのだった。

 「何で、何ですぐに言ってくれなかったの?そんな大事な事を!」

僕は驚くと同時に怒っていた。「えっ」と電話ごしに亜季さんは目をパチクリさせただろう。僕は同じような事をもう一度言ったが、亜季さんは何も答えない。亜季さんの中では考えてもみなかった事みたいだった。僕は亜季さんの事が心配で、それでもすぐに連絡をくれなかった亜季さんに頼りにされていないと感じたんだと思う。今、考えると傲慢な考えだったのだが。

 亜季さんが何も答えないので、僕は仕方なく事情を聞いてみた。そしたら、原因は生理だと言う。僕は当時、生理が倒れるほどの苦痛があるものとは全く思っていなかった。本人も「個人差がある。」と言っていたように、亜季さんは普通の人より症状が元々重かったらしかった。

 詳しい話を聞いてみると、前回が6月の終わりだったらしく、約2ヶ月も生理がない状態だったのだと言う。だから、亜季さんは小林君か黒田君の子供がいるのかも、と思っていた。

 「慎ちゃんの子供だったらいいなって思ってた。」

初めてこの話を聞いたのだけれど、それを僕に言わなかったのも何となくわかる気がして、それを素直に受け止めた。むしろ、小林君の子供が生まれて欲しかった。そして、そう思った瞬間その子を僕が育てる未来を想像した。僕はその世界を望んだ。

「もし妊娠してたら…どうしたのかな?堕ろしてたかも知れないし、産んでたかもしれない。あんまり考えずにいたんだけど…やっぱり期待してた。慎ちゃんの遺伝子がこの世界にまだ残っていて、そしてその子を育てる未来を想像してた。」

 ゆっくりと亜季さんは言葉を重ねていた。

 「だけどこうなって…寂しいね。」

亜季さんの声は感情的にもなっていなかったし、むしろ感情が無くなった人のようだった。あの時、僕は電話ごしではあったが亜季さんと同じ気持ちになっていたように思う。勿論、僕と亜季さんでは背負ってるものの重さが全然違っていた。でもあの時の寂しさというか、悲しさというか、そういう言葉だけでは表せないあの気持ち。それを二人とも感じていたように思うからだ。生まれてもいなかった命を、僕らは喪失していた。

 しかし現実は、小林君が死んでしまった時から異常とも言える精神状態で過ごしてきたせいで、亜季さんの体が「生理不順」という形で変調をきたしていたというだけだった。二人は逃れようのない現実の中でただ深く沈みこんだ。

 そうした亜季さんとの生活が続く中で勝さんからこんな話を聞いた。

 「黒田がお前の事、怒ってたぞ。」

勝さんが黒田君に僕と亜季さんが付き合っているという話をしたところ、取り乱して怒ったのだという話だった(いつの間にか勝さんと黒田君の仲は戻っていた)。

 僕は亜季さんのことが好きだと気付いてから、「告白しよう」と考える間もなく付き合ってしまっていたので、あの日、黒田君が亜季さんを好きな事を完全に忘れていたのだった。その後それに気付いたが、黒田君はいつも「亜季とは今のまま友達でいたいんだよ。」と何度も言っていたので「大丈夫なんじゃないか」と漠然と思っていたのだった。むしろあんまり考えていなかった。考えようといていなかった、というのが本当のところだと思う。勝さんからその話を聞いてそれを思い知った。

 それと同時にいつも言っていた「友達で居たい」という言葉は黒田君が自身にいい聞かすための言葉だったんだと思った。僕は罪悪感をやっと背負い始めたのだった。

 しかし、普段バンドの練習などで何度も顔を合わせているにもかかわらず黒田君の僕に対する態度は変わらなかった。いつものように町田のスタジオで音合わせに集まり、練習が終わるとみんなで喋った。二人きりで話す時でもそんな話が出る事もなかった。その雰囲気から「怒ってないというわけではないけど仕方ない事」というふうに思っているのかな、と思った。ただ、僕の意識はそこではなく、間に合うかどうかの瀬戸際だったバンドの進行状態や自分自身の技術の向上に向けられていた。だからそれ以上の事は何も見えていなかったのだと思う。十八歳の夏、こうして激動の八月は過ぎていったのだった。


後でもう一度お試しください
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